自転車は左！

彼女がこの世の果てに果てに見た夢は　−ブラスティッド
おおのひろみ

暗闇と煙幕によって遮られた視界に幾筋かの光が激しく行き交っている。その光は、残党をあぶり出そうとする兵士達の持つ投光器のようにも、窓外の照空灯がはるか遠くで輝いているかのようにも見える。

この、あまりに幻想的で美しいシーンは、幕間の場面転換作業時に現れたものである。光の正体は暗闇と煙幕の中で作業を行うスタッフの視覚を確保するために、頭部に付けられらライトであった。観劇後も何度となく頭の中をよぎったこのシーンは、戯曲のタイトルでもあり、ト書きにたった一言書かれているだけだという“Blasted”を作り出すための作業から生み出された時間であり、ある意味この芝居の象徴的な一場面だったのであろう。

物語は高級ホテルの一室。中年のジャーナリスト・イアンのもとに、若い娘・ケイトが訪れてくるところから始まる、と芝居のチラシに印刷されたあらすじにある。

確かに、美しい部屋は高級ホテルの一室なのであろう。しかし、同時に場末の連れ込み宿のような淫靡な雰囲気も感じる。「中年の」ジャーナリスト・イアンを演じるのは、今風に言えば若い「イケメン」な俳優だし、女を演じているのは「若い娘」というより「美しい女性」である。そういった視覚的なギャップは、後に訪れる崩壊（blasted）の兆しとして、随所に織り込まれている仕掛けの一つだったのではないか。

イアンは病魔に冒されているらしく、自らの肉体の内部から「死」が迫りつつあることを怯えている。怯えつつも、酒を飲み煙草に火を付ける。何かに追われているらしく、外界からの「死」にも怯えている。袋小路に追いつめられた状況の中で、その状況を打開しようとするでもなく、ただ慰めを得るためだけに女の肉体を欲し、ケイトにそれを求める。そして拒絶されれば、それを暴力をもって支配しようとする。しかしイアンは気が付いたはずである。肉体から得られた一時の快楽は、何の慰めにもならないことを。本当に必要だったのは、女の肉体ではなく愛だったことを。そして、ケイトからはそれを得られないことにも･･･

イアンが壊れつつある一方で、ケイトは端から「壊れて」いる。完全に精神と肉体が乖離しているように感じられた。成熟した肉体を持ちながら、「煙草は健康に悪いよ」「差別はいけないよ」「お肉、気持ち悪い」などと青臭い正論や子供じみた言動を繰り返す。精神的にはまるで子供のままである。「（相手が）かわいそうだから」「（自分が）気持ち良くなりたいから」「食べ物が欲しいから」と、泣いている人に貸してあげるハンカチのように、自らの肉体を男に差し出す女のように感じた。

男からみれば、言いなりになる便利な女と映っていたのかもしれない。しかしケイト自身はあくまで、自分が「したい」か「したくない」かを決めている。イアンが何を求めケイトを呼び出したのか、そしてケイトは呼び出されておきながら、「したくない」という理由だけで、イアンを拒絶している。暴力で肉体は支配されても、ケイトは誰の支配も受けない。肉体の痛みを、まるで他人事のようにしか感じていないのだから･･･

いつの間にかケイトが舞台から消え、兵士が現れる。そして舞台は暗転。冒頭に著した“Blasted”を迎え、瓦礫と土砂に埋もれた室内へと一変する。

兵士はイアンに「愛を教えに来た天使のような存在」だと演出のジャンヌトー氏は語っているという。ケイトと入れ替わるように現れた兵士は、イアンがケイトに対して行った忌まわしい行為をそのまま、否、それ以上の忌まわしい行為にしてイアンに返していく。

兵士は、ケイトとはイアンをはさんで対極の存在、あるいは、むしろ表裏一体の存在である。ケイトと兵士は、同じ世界に同時には存在しないのである。

肉の塊となった兵士に替わって、再び現れるケイト。「女の人から渡された」赤子を抱えている。一瞬、蹂躙された挙句にケイト自身が産み落とした赤子かと錯覚した。サラ・ケインの戯曲には幕間に「四季の雨が降る」という指示があるらしい。時間軸すらも崩壊しているのか、そういった「錯覚」はむしろ積極的に仕掛けられたものだったようだ。赤子はやがて死んでしまうのだが、表情一つ変えず、赤子を葬り、形式的な祈りを捧げるケイト。そして兵士が持っている食べ物を得るため、外に出て行く。食べ物を得るために自らの肉体が感じるであろう痛みにはまったく無頓着である。

食べ物を携え、イアンのもとに帰ってきたケイトは、自ら墓穴に入っていったイアンとともに「食べる」。「生きるために食べる」という積極的な意味は何も感じない。ただ、「食べる」。しかし、そのふたりの姿は、何事からも解き放たれたように、ただただ美しく、永遠の「無」の世界に留まっているかのようだった。

激しく残酷で、完全に崩壊していく世界を、丁寧に、そして美しく描ききった俳優達、演出家、スタッフに惜しみなく拍手を送りたい。 □
−観劇日：6月14日